信濃三十三観音霊場札所巡り


四百年の昔から伝わる観音霊場巡礼
信濃三十三観音霊場札所は、いつだれの手でどのように作られたのか、今になってはわからない。三十三の寺を選んだ理由や基準も明らかではない。江戸初期かそれ以前かも不明だが、ただ言えるのは三十三寺のほとんどが善光寺西街道や北国街道など善光寺へ向かう街道沿いにあることから、善光寺参詣が盛んになるのにつれ、観光的に作られたのではないか。
また、霊場は長野県内に広く及んで、観音霊場を札所としたのは各藩だったとも言われる。西国・四国・伊勢と人々がこぞったように年々詣るが、費用もかかる。その費用を藩内に落とす事が得策と考えられたのではないか。
信濃三十三番札所に数えられる中には、甲斐の武将・武田信玄と越後の武将・上杉謙信など所縁の寺や信州松代藩主・真田家所縁の寺などもある。遥か昔の歴史上の人物や、日本の屋根と称される山々の懐に広がる清流と木々に包まれた信濃路の観音巡礼をする事で、大いなる自然と歴史のロマンを感じることができる。
廃仏毀
『仏教を廃し釈迦の教えを棄却する意』明治政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教の排斥運動。明治元年(一八六八)神仏分離令発布とともに、仏堂・仏像・仏具・経巻などに対する破壊が各地で行われた。
神仏分離令や大教宣布は決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制などを急激に実施したために大混乱となった。明治四年(一八七一年)ごろ収まったが、長い間回復は困難であった。
国語辞典、Wikipedia等を参考